勝負俵を踏むことは責められる事なのか?

大相撲

令和元年最後の本場所、九州場所は、休場明けの横綱白鵬関の14勝1敗での優勝で幕を閉じました。

3月場所と11月場所で年二回の優勝は流石といったところでしょうか。

毎回思うのですが、白鵬関については、ネット上含めネガティブな声が多数見受けられますが、巡業などでは人だかりが出来、サイン攻めにあっているのもまた事実です。何故そんなに差が出るのだろうかと不思議に思うことがしばしば。

九州場所で苦言を呈するとするならば、玉鷲関との取組で立合い合わず胸を突き返すシーンぐらいかなぁと思ってはいるのですが、気になる方々は色々と気になるのでしょうね。

そんな中で一番疑問なのは、

『勝負俵を踏むんじゃない』

という、意味不明な中傷です。勝負俵を踏むんじゃないというのは果たして何を根拠に言っていることなのだろうかという話なのですが…

ネット上で理由を探ってみたのですが大体こんな理由を並べられているようで

①大相撲中継で刈屋さんが言っていたから

②俵は神聖なものだからそもそも踏んではいけない

③勝負俵の内側は所謂結界なのだから踏んではいけない

④勝負俵のまわりの蛇の目が乱れてしまうから勝負前に踏んではいけない

といったところでしょうか。

①大相撲中継で刈屋さんが言っていたから

この話はネットでちょっと検索するとよく出てくるのでそちらを見ていただくのが良いかと思いますが、元大関豊山(元時津風理事長)がそういう事を言われていたとの話からですが、その根拠が不明瞭

相手に失礼であるとか、はて?その元大関豊山の師匠である、大横綱、双葉山関は踏んでおられましたが…??

とはいえ、69連勝で止まる取組で俵を踏んで出たら負けたからなんでしょうか??なんにしても勝てていないときに踏んでいたらそんなこと言われてしまったかもしれませんね。

どんな状況でどういう話をされたのか背景が不明確な話は大体美化されるものですから…

根拠としては薄い内容ではないかと思います。

②俵は神聖なものだからそもそも踏んではいけない

この説はそもそも相撲を見ていない人の意見なんだろうなと

土俵に上がるための階段みたいなところ『踏み俵』を踏んで上がってますからねそもそも踏むんですよ俵を…

むしろあの俵の上までは生死の境目、俵から落ちたら死ですからねぇ

③ 勝負俵の内側は所謂結界なのだから踏んではいけない

これも不思議な話ですが、確かに土俵は神聖な儀式を行い、清めています。

ただし、勝負俵の内側ではありません。結界というのであれば『角俵』になります。

一度、土俵祭りを見に行けばわかると思いますが、清めるのは角俵のまわりになります。

④ 勝負俵のまわりの蛇の目が乱れてしまうから勝負前に踏んではいけない

たしかに蛇の目が乱れては勝敗に影響が出ます。しかしこれまた相撲見ていない人の意見ではないかと…

相撲の立合い前、何度か仕切りが行われます、そして懸賞幕も回ります。蛇の目、乱れますよね…

時間いっぱいになると、これでもかと塩を投げる照強関なども居ますが、塩をどっさり投げれば、蛇の目、乱れることもありますよね…なので時間いっぱいになったら再度、呼出しさんが蛇の目を整えます。

なので、これまた理由としては弱い…

結局のところ何なのか…

さて、大相撲の錦絵などを見てもらえればわかるのですが…そもそも昔は、勝負俵の上にござ引いて審判が座っていました。ただ、観客に見やすいようにといろいろとやっているうちに、審判は土俵下に移動し、勝負俵も2重から1重に変わるなどしています。

他にも、土俵入りの絵で、露払い、太刀持ちの力士が俵上に居たりします。

結局のところ、勝負俵を踏んではいけないという理由自体は明確なものはなく、なんとなく後付け感が強いように感じています。

あくまで個人的な感想ですが、白鵬関にしても過去の横綱にしても、土俵の広さをとても大事にしていたものと考えてます。なので足の裏で土俵の感触を感じ、どのような感触がまだ大丈夫な足の位置であるかを毎回確認しているのではないかなと考えています。背中にも目があるかの如く土俵を割らないあの距離感覚はそういったところから出ているのではないか…そう思わざるを得ないのです。

まぁ白鵬関については嫌いだという方はトコトン嫌いなのでしょうから、いろいろと目に付くのはわからなくもないのですが、本当にダメなことと、そんな根拠はないだろうということを混同してまで責め立てるのは、あまりにも程度が低くなると思いますので、もっといろいろな力士の魅力的な部分を探すことに気持ちを持っていかれるのが良いかと思いますよ…

ということで、なぜ勝負俵を踏むのがいけないといわれるのか?理由は定かではないということで締めたいと思います。

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コメント

  1. あああああ より:

    相撲って神事ってこと理解している?

  2. 金森一郎 より:

    結界というのは神聖な場所という意味の他、境目という意味があります。茶道の世界でも亭主とお客の間には畳の縁を境目として結界があり、踏んではならないと言われています。勝負俵の内側は力士が力を尽くして勝負する神聖な場所、外側は束の間気を休める場所であり、勝負俵はその境目、結界であり、踏んではならないと私たち団塊世代は子どもの頃から教えられて来ました。

    • hindkill より:

      コメントありがとうございます。

      確かに茶道の世界でも畳の縁を境目とする話は耳にしたことがあります。
      ただ、本件の相撲の俵については、なんとなく『そう思った』人の話が広がっただけで明確な理由はないのではないかと考え調べてみています。
      勝負俵の内側が神聖な場所、外側が束の間の、気を休めるところ…という話も分からなくはないですが、角俵の内側、勝負俵の外側の部分で気を休めている力士が居るようには思えません。
      むしろ踏み俵を上り土俵に上がった時点で気を休めるところはないのではないかとも考えております。(それが土俵祭りでの清めと連動)

      なお、昭和10年代後半の力士は横綱双葉山関をはじめ多くの力士がわざわざ勝負俵の位置を確認し踏みに行っている映像も残っております。
      その後に大相撲の規定として立合い中を除き勝負俵を踏まないといった規定も出来ておりません。
      近しいものとしては、十両および幕内土俵入りの際、勝負俵を跨いで回るのではなく、勝負俵の外を回ることといった注意文が張り出されていたことはございました。

      とはいえ、踏んではいけない事を出発点として理由を考えればいろいろと思いつきますが
      踏むべき事を出発点として理由を考えるとあまり出てこないのが難点だなとも思っております。
      ※横綱を神ととらえれば、神と俵の一体化といったニュアンスも出るかもしれません。
      ⇒それであれば大関止まりであった豊山関が叱られたのも分からなくはないですが…
      ※単に俵と土俵の高さの差を確認しているという考え方
      ⇒どの程度までだと足が外に出ないかを感覚的に知るには必要な情報

      なんにせよ、もやっとした理由で良い・悪いを論じて責め立てているのがよろしくないと感じているので
      良いのか悪いのか、協会としてルールを改定するなど明文化してもよいのではないかと私は思っています。

      • たかちゃん より:

        協会、協会と言わないで、当たり前の悪いことなんです。大丈夫ですか?

        • hindkill より:

          当たり前というのは過去の横綱の方々の所作を見よということでよろしいでしょうか?

  3. たかちゃん より:

    読ませて頂いて、あなたの見解は全くもって見当違いと考えます。こちらが恥ずかしくなります!!

    • hindkill より:

      意見が違うということは、その考え方の積みあがっている情報の違いでもありますので、何故全く違う意見となっているのかの話を出していただけるとありがたいです

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